圧縮効果は画角か撮影距離か
「圧縮効果は撮影距離によって生じる」という主張と「圧縮効果は画角によって生じる」という主張がある。
これはなぜか。
これは2つの別々の命題を念頭においているからだと考えた。
「ある被写体の撮影倍率(=大きさ)を固定すると、背景の撮影倍率は撮影距離が長いほど、あるいは画角が小さいほど大きくなる(前景は逆)」
「画角が標準的な人間の視野角よりも小さい場合、撮影された写真は『現実よりも』奥行きがなく、間隔が詰まっているように『見える』」
前者は2つの撮影条件を比較する(あるいは連続的に変化させる)という状況で、後者は写真を見るという状況だ。
前者の補足。
撮影倍率を固定した場合、撮影距離と画角は片方を変えるともう片方が連動して変わる関係になる。(自由度が1減る)
撮影距離が変わるので背景の撮影倍率が変わると説明されるが、この状況では画角を変えても撮影倍率は変わるので、どちらを原因と考えてもよい。
後者の補足。
この錯覚がなぜ起こるかというと、写真を見たときに人間の標準的な視野角を想像するからだ。
本当は画角が狭いのに、脳内で広げると(奥行き方向に垂直な面について拡大)、相対的に奥行き方向には縮む。
双眼鏡を覗くと、ものが近くにあるように感じるのと同じことである。
結論、圧縮効果を起こすのは何か。
前者の話をしているのであれば「撮影距離または画角(どちらも同じこと)」、後者の話をしているのであれば「画角」となる。
追記
命題「2つのものの撮影倍率の比は、撮影距離を長くするほど1に近づく(撮影倍率は撮影距離に反比例するので)」も入れると3つ。これは撮影距離のみの効果。めんどくさい。。
参考
https://togetter.com/li/1143653
http://photo-studio9.com/compression-effect/
https://papacame.com/perspective-and-compression-effect
無保証を選ぶべき条件
ものを買うときに、保証つきの新品を買うか、保証なしの中古を買うか迷っているとする。
中古を買うことに決めて、その理由を考える。
「高いものだから(割引金額が高いので)中古の方がいい」「安いものだから(たとえ不良品でも大した被害ではないので)中古の方がいい」
貧乏性のせいか、両方を言うことがある。
これは非合理である。
もし「安いものだから中古のほうがいい」のであれば、「高いものならば新品のほうがいい」にならなければおかしい。
保証をつけるというのは、保険に加入することと同じである。
リスクが許容できる場合は保険に加入すべきではないし、リスクが許容できない場合は保険に加入すべきである。
したがって以下が正しい。
「安いものはリスクが許容できるから中古を買う」
「高いものはリスクが許容できないから新品を買う」
生涯年収が数億円の桁ならば、数万円の桁のものであれば保険は不要だろう。
生涯で何百回と購入することになるだろうから、平均的な被害におさまる確率は高い。
お金は労働を保存する
お金には価値を保存する機能があるという。
本当だろうか。
無人島に行ったとする。
お金を持っている。
ただの紙切れである。
これは価値があるといえるのだろうか。
いやいえまい。
お金というのは、労働を保存したものだ。
自分はこれだけ働いたのだから、他の人にも相応に働いてもらう権利がある。
それを数字にしたのがお金だ。
他の人のためになることをする(労働)と、お金がもらえる。
逆にお金を払うというのは、他の人に働いてもらうことだ。
働いてくれる人がいなければ、お金を持っていても意味がない。
ロボットにはお金は必要ない。
ロボットは「他の人には働いてほしいが、自分は働きたくない」と思わないからだ。
「資産を継がせたい」の非合理
「自分が死んだら、資産は子供に継がせたい」
「自分が死んだら、資産は慈善団体に寄付したい」
という考えが理解できない。
「資産を継がせたい」と「今、生きているときに思っている」のだ。
死んだときまで遅延させる必要はない。
思っているのなら、生きているうちに実行すればよいのだ。
生きているうちに贈与すれば、資産を与えた影響が見られるではないか。
死んでしまったら、贈与が達成されたかどうかすら知ることはない。
実行しないのであれば、今は贈与したくないのだ。
「今は安心のために資産を持っていたい。」が本音だろう。
お金を使いきって満足度を最大化したいという観点からは、相続を待つのは合理的な行動ではない。
やったならばできる
やればできるという言葉がある。
よく意味が分からないので、近そうな命題を考えてみた。
「やったならばできる」
これは常に正しい。
人間がやったということは、人間にできることだということだ。
逆もまた真なりだ。
「できるならばやった」
できると証明するためには、やらなければならない。
やっていないとすれば、それはできるとは限らない。
なのにできるということは、やったということだ。
「やったならばできる」と「できるならばやった」が成立する。
すなわち、やったとできるは同値である。
「やればできる」に代入すると、「やればやった」ということになる。
これも正しそうだ。